ロニ先生について

レポーター:フリスカ・ウィディア&イファ・ヌルライリ

Roni

ロニ先生は1971Tulungagungに生まれました。お父さんの名前はAhmad Shidiqさんです。お母さんの名前はWagiさんです。兄弟が三人います。ロニ先生は長男です。妹と弟がいます。

ロニ先生はPondok Legi IV Blok H1 Pepelegi, Waru, Sidoarjoに住んでいます。その家には奥様と子供と一緒に住んでいます。奥様の名前はSoes Al Cholifa さんです。ロニ先生の奥様の職業は会社員で、今はPIER (Pasuruan Industrial Estate Rembang) 会社に 勤めています。ロニ先生の娘が二人います。一番めの娘の名前はSafira Ghina Fahraniさんで、今は中学校の二年生です。二番めの娘の名前はKanessa Ade Fahraniさんで、今は小学校の四年生です。

学歴は小学校から中学校までTulungagungにある学校で学んで、高校はBlitarにある学校で学びました。卒業した後で、1990年から1995年までIKIP Negeri Surabayaで学んでいました。大学生の間、奨学金をもらって、1994年 から1995年まで名古屋大学で日本語・日本文化を勉強しました。1999年から2001年までSebelas Maret 大学大学院修士課程で言語学を勉強しました。20048月から20053月まで埼玉市にある交流して、講師研修を受けました。2006年から2008年まで名古屋大学大学院修士課程に進学し、言語学を専攻 しました。その後、博士号をとるために、2008年から2011年まで名古屋大学大学院博士課程で日本語学を学びました。研究のテーマは述語構造(じゅつごこうぞう)にあるQualifierです。

ロニ先生は表彰をもらったことがありあす。たとえば、大学の1年生の 二学期目から三学期目までJapan Foundationの奨学金をもらって、四学期目にTID (Tunjangan Ikatan Dinas) をもらいました。東ジャワのスピーチコンテストに3位に優秀しました。最後は2005年に文部省の奨学金をもらって、名古屋大学で勉強することができました。そして、職歴は199510月から国立スラバヤ大学とTujuh Belas Agustus大学で非常勤講師になりました。1997年から1998年までMadiunにあるPT.INKA (今はPT.KAI)で働いたことがあります。今は国立スラバヤ大学に日本語の専任講師をやっています。

実はご趣味はバドミントンですが、忙しくて、時間が足りませんから、今はジョギングが好きになっていました。毎日午前5時から午前5時半まで奥様とジョギングしています。好きな食べ物はRujak Cingurとすしです。好きな 飲み物は普通のお茶です。日曜日いつも家族と一緒に食べに行きます。子供の時小学校のインドネシア語の先生は優しかったから、小学校の先生になりた かったと言っていました。

ロニ先生は2012年から日本語学科長になったから、忙しくて、時間が 足りませんが、学生さんとしゃべって、楽しくなっていると言っていました。 日本語学科に対して観察力を持っています。一番めは学生さんが適当に勉強 できる雰囲気を作りたいと言っていました。学生さんが勉強できたら目的が 勝ち得って、クラスで勉強だけじゃなくて、クラスの外でも勉強しないといけないと言っていました。

ロニ先生は地味な人になって、モットは『水の流れように生活している』と言っていました。学生さんのために次のような提案もあります。学生さんは クラスで勉強するのは足りなくて、毎日どこでも勉強しなければならないと 言っていました。

レトナニ先生

Retnani

レトナニ先生は1964414日にマラン生まれました。ご両親はイマムスバギョウさんとサラトシさんです。レトナニ先生はひとりっこで、三歳になった時、レトナニ先生の家族はスラバヤへ引越ししました。9歳に、お母さんは亡くなったのでおばさんに育てられました。1986年にシャイフルコリクさんと結婚します。お子さんは4人で。三人は娘、一人は息子。しかし、息子が亡くなられたので、今のお子さんは3人です。一番目のお子さんは(娘)26で、今はSTKW 大学で美術の教師をしています。二番目の方は(息子)三月に生まれたあと、亡くなってしまいました。そして、三番目の方は23歳で美容の学士を取得し、今は、大学院で勉強しています。最後の娘は中学生で、13歳です。ご住所はNgagel Jaya 通り39番に住んでいます。

お父さんは先生だったので、レトナニ先生の夢も先生になることでした。お父さんに感銘を受けて、レトナニ先生はお父さんのような仕事をしたいと思っていました。その夢は叶い、今は日本語教育学科の教授としてUNESAで教えています。レトナニ先生の学歴は1969Ngagel Jaya Utara幼稚園に。そして、1975から1978まで、頭が良かったので一年、三年、五年、六年生の4年間だけPucang Jajar I小学校で勉強しました。そして、SPBK I 中学校で勉強しました。1979から1981までTri Murti 高校で勉強しました。その学校で始めて日本語を習いました。一年生から三年生まで日本語を勉強し、レトナニ先生にとって日本語は面白く、勉強している人も少なく、珍しい専門だったので、日本語に興味を持ちました。卒業してからも日本語教育学科のIKIPスラバヤで勉強し続けました。2002年から2004年まで、UNESAの大学院で修士号をとるために日本語を勉強し、2004年から2008年まで、同専門を博士号とるために大学院で学びました。

レトラニ先生はIKIPスラバヤの弁論大会で3位、UNPADで4位でした。それから、1990-1991年に国際交流基金から奨学金をもらい、10ヶ月間日本へ勉強しに行きました。1998-2000年には東京外語大学で教員養成を勉強しに行きました。先生になってから、嬉しいことや大変なことがありました。教え子がいい点を取ったり、成功したりした時は嬉しいです。しかし、先生が授業をしている時に皆がうるさく、集中せず、先生の話を聞かない時は大変です。「全て嬉しい事になるためには嬉しいことを考えなさい」と言うのが、レトナニ先生のモットーです。そして、先生は「成功したければ、学生は規律を守る人にならければならない」と言います。

先生によると、今の日本語学科は学生たちの勉強への興味も向上し、良いそうです。先生の希望は日本語学科がもっともっと良くなり、学生が規律正しい人になるために自立していくことです。

レポーター: AYU MAKHMUDZAH  &  BART PAULUS & DWI PUTRI HANDAYANI 

DJODJOK先生のプロファイル

Djodjok

Djodjok先生の氏名Djodjok Soepardjoです1958916TasikmalayaまれましたTeluk Sampit 通りの34 Surabayaに住んでいます。Djodjok先生の学歴は小学校から中学校までTasikmalayaで学びました。小学校の名前はTasikmalayaの国立第4小学校です。それで中学校の名前はMangunjaya中学校です。そしてSoloTunas Jaya高校で学びました。学士は1981年にIKIP Bandungで学びました。修士と博士号は名古屋大学の文化と言語学学科に学びました。名古屋大学で1992年から1994年まで進学して、博士号をもらうために1994年から1997年まで学びました。Djodjok先生は200611日に会社を設立しました。この会社の名前はI’Mc Centerです。I’Mc Centerは日本にも支社があり、大阪と徳島にあります。Djodjok先生の職業は 1983から今まで、国立スラバヤ大学の日本語学科の講師になって、それに、2000年から今まで、国立スラバヤ大学院の日本語学科の講師になります。

1986626日にVina Binawatiさんと結婚しました。子供は二人います。名前はTanisa Arsa SoepardjoさんとRifki Fauzan Soepardjoさんです。Tanisaさんは国立スラバヤ大学の経済学科に勉強しています。Rifkiさんはスラバヤの国立第5高校に勉強しています。Djodjok先生の趣味は魚釣り、テニス、読書、書く事です。毎週 友達と海釣りに行きます。Djodjok先生は哲学の本読むことが一番好きです。でも、漫画は好きではありません。好きな食べ物はsayur pareと鍋です。そして好きな飲み物はヨーグルトと午後のお茶です。アイドルは宮本武蔵さんです。

Djodjok先生は書くことが好きですから、作品は四冊があります。その作品は、2008年にFriendly – Friendly Fortune Comeで、1999年にBudaya Jepang Masa Kiniで、2013年にLinguistik JepangGairah Hidupを書きました。

レポーター: Yessi Candra Rizka Sari &Lailatur Rohmah &Fenny Annisa Kurniasari 

Yovinza Bethvine Sopaheluwakan Kotambonan

レポーター:Aryani, Hikmiyah, Yuni lisara

Vinza

Yovinza先生の氏名はYovinza Bethvine Sopaheluwakan Kotambonanです。19621026日にスラバヤに生まれました。今は51歳になられましたが、先生はきれいで若くみえます。毎日たくさん水を飲んでいるからでしょう。

スラバヤブロンガラン通りの2E20番に住んでいます。ご両親はJ.J. SopaheluwakanF.M Sopaheluwakanで、アンボン出身です。ご主人はIr. Dodo S. Kotambonanで、マナド出身です。お子さんが2人います。長男の名前は Lenowil R.I. Kotambonan28歳です。次男の名前はBethsa S.I. Kotambonan27歳です。ご趣味は歌を歌うことと踊ることです。教会のコーラスに参加していて、週に二回歌の練習に参加しています。将来、先生は海外旅行に行きたいそうです。今まで六回、日本へ行ったことがあります。日本だけでなくシンガポールにも二回行ったことがあいます。

Yovinza先生の学歴は1969年にスラバヤギキグベン小学校に入学しました。1975年から1978年まで国立スラバヤ第5中学校で学びました。そして1978年から1981年までTrimurti高校で学びました。高校で初めて日本語を勉強しました。1981年から1986年までスラバヤ教育大学で学びました。卒業してからスラバヤ教育大学で教師になって、それから2001年から2006年まで国立スラバヤ大学院で勉強しました。Yovinza先生は日本へ行くための奨学金を三回もらったことがあります。一回目はJapan Foundationからもらい、成績優秀者で二週間ぐらい日本へ行きました。教師になってからの奨学金は二回もらいました。最後の奨学金で1年半ぐらい、名古屋大学で教員研修をしました。

1986年から今も国立スラバヤ大学の日本語学科で教えています。今はMDC中学校とSanthaTheresia小学校でも教えています。そして、Jasmine Petra大学でも教えたことがあります。大学生の間に六回弁論大会に参加したことがあります。一回目は東ジャワの弁論大会で一位になりました。

Yovinza先生は日本の小説を翻訳したことがあります。阿部知二の死の花と罪の日の小説です。アラマンダと猿の小説を翻訳している中です。先生は文学が好きです。なぜなら、文学からいろいろな知識を理解できるからです。たとえば心理学や文化や哲学などがあります。それだけでなく、先生によると文学から人間のことを勉強することもできます。

先生によると今の大学生は、色々ながありますが、大学生の努力がありません。ですから、大学生には夢をかなえるためにもっと頑張ってもらいたいと思っています。先生のモットーは、全部は神様の与えです。

Joko Sensei

わたし達は2013年10月10日にJoko先生をインタビューをした。Joko先生の氏名はJoko Prasetyoで1979年03月29日スラバヤにうまれた。奥様の名前はEndah Riwayatiさんである。娘は一人だけいって、氏名はAnanda Nayla Putri Prasetyoである。Joko先生はPutat Jaya IVで小学校した。それからBrajamuktiで中学校して Sejahtera Iで高校した。Unesaで学部してUPIで大学院として卒業した. Joko先生の趣味は読むことと音楽を聞くこととスポーツをすることである。読むことが好きだから、高校生のときスピーチコンテストを優勝した。それから、学部のとき色々な大会を優勝した。一つは弁論大会である。弁論が上手だから、渋谷でインドネシアの代理にとして2000年のASEANの弁論大会を優勝した。それはJoko先生の一番目の経験日本へ行った。二番目は筑波大学で一年間勉強した。

Foto Joko

Joko先生にとって、日本で住んでいたとき、日本とインドネシアの違うのは例えば、政策のことと市民の気付きのことと公益事業のことと州政府が市民を鑑賞することとどんな仕事をやっても、賞与があることと言っていた。だから、日本で溶け込めるために、日本生活をやっている。先生は日本で住んでいたとき、幸せことも悲しいこともあった。他のは、忘れないこともあってそれはJoko先生が守り泥棒を呼んでしまった。

子供のとき、Joko先生は警察になりたいけれど、やはり教師になったのは好きと言っていた。しかし、始めて大学で勉強したとき、日本語ぜんぜん分からないだった。それから、日本語をもっと分かるために、できるだけ素敵な調子を作って勉強する。例えば、漢字を覚えられるために、絵を書いた。学部をやっていたとき、Morfologi Penyingkatan Kataについて論文を書かれた。それから、大学院をやっていたとき、Tindak Tutur Permintaan Tidak Langsungについて論文を書いた。今はまだS3をやりたいけれど、できるだけ機会を探して、日本へ行く。

レポーター:フィルダ・サフィトリ、ラトリ・アユ・イルサリナ、アジェン・クスマニンルム